ぼくのスピリチュアル物語 32 「透明で素直な心」


(「黒住さんからの霊界通信、15通目(1985.6.27)」より)
《削岩機を使い、ドリルを振動させて穴をあけるように、現(うつ)し身の人に働きかける。全く振動を仕掛けられぬ程、どうにもならない程に重く被っている者もある。波動サイクルが全くあわぬ者も、これもドリルを使おうにも使えない。
ドリルが非常に使い易く、削岩機の使いやすい者は、その波動アンテナが真に真っ直ぐに上を向き、天に対する希求心の強い者(その内奥に眠っている場合も含める)である。
透明であるということは、何と楽なことであることか。透明であるが故に、喜びと苦しみの深いことはおわかりのとおりである。
柔らかなこの霊波の触手は、あなたが肉体を去ってこちらの世に来る日、こちらにありてあなたは更にそれを実在として知ることであろう。》

(静さんの「註」より)
「『削岩機を使い、ドリルを振動させて穴をあけるように…』という烈しい表現に驚きました。実は私達は昭和40年頃、砕石場のすぐ前の借家に住んでおり、その激烈な振動音に三年余り悩まされた経験がありますので、このような表現が記されているのであろうかと、ふとその当時のことを思い出しました。
そして、肉体をまとっている人間が、いかに頑固で素直でないか、神の霊の種子を内奥にいただきながらも、どんなに強固な自我欲でその周りをおおい固めていることか、光が魂に届くということが、どんなに大変なことであるか、また心が透明で素直であるということが、どんなに貴重で大切なことであるかを知らされ、それぞれが自覚を深めるべきことを痛感させられました。
汚れがいっぱいついた重い心では振動が仕掛けられず、また、物的な考えにこり固まっていて、心の波動サイクルが、全くかみ合わない場合もどうすることも出来ないということですから、私達は波動アンテナを真っ直ぐに上にむけ、純粋で素直な心であるよう心がけて、働きかけやすい道具にならなければと思いました」
(以上)

透明で素直な心を持つ人、知り合いの中の何人かの顔が浮かんだ。また、その対極にいるような人の顔も浮かんだ。それぞれから受ける印象は、すべてに対してというわけではないが、前者の人たちは柔軟であり、後者の人たちは強固な傾向があるような気がする。

心が透明で素直であれば耳元で囁かれるような導きを受けることができるが、そうでない人々は削岩ドリルでこじあげようとしても気づかないくらい鈍感らしい。一方で、透明で素直な心は、魂が成長しやすいように喜びや悲しみを深く感じ取れるようになっているらしい。たしかに、削岩ドリルにびくともしないような人は喜びや悲しみにも鈍感で、どこか薄情な側面があるのかもしれない。

霊界からの働きかけを生かすも殺すも、こちらの受信器の性能次第ということなのだろう。
その性能を高めていくには、透明で素直な心で受け止め、魂を磨くということに他ならない。

(「黒住さんからの霊界通信、15通目(1985.6.27)」より)
《こちらの世界、それが本物なのである。ただただ、あなたは試されているに過ぎない。つらくても、あなたを導く道標べがあなたを導く如く、あなたは向上すべきであるし、向上を望むものである。》
(以上)

(静さんの「註」より)
「『こちらの世界、それが本物なのである』という言葉は、死はすべての終わりであると思い込んでいる人々にとっては、何とも合点のいかない言葉と思いますが、それは真実であるようです。
あなた達は霊の世界から、それぞれの魂の修行のために、最もふさわしい肉体界の場へ派遣されているのです。日々の出来事は、それによってどの様に魂を進化向上させることができるか、それをいつも試されている。(テストを受けている)ようなものです。だから、苦しくても、辛くても、最善をつくして懸命に生きれば、きっとあなたを導く道標べが良き様に導いてくれることを信じて、どうかみんな一生懸命生きて魂を向上させてほしい。それは人間としてのなすべき責務なのだから。と言っているのだと思います。」
(以上)

向こうの世界が本物で、こちらの世界は虚像、つまりヴァーチャル、ゲームの中みたいなものか。
目の前に次々に現れるハードルをどう乗り越えるか、こんがらがったパズルをどう解くのか、山あり谷ありの人生ゲーム、この世を去るその日まで、透明で素直な心で楽しみたいものである。

(つづく)



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