世の中の人たちは、誰もが大なり小なりの心配とか不安を抱えている。
根拠のある心配や不安なら理解できるが、時としてそうでない人もいる。
天枝は過去の日誌を見ていて、反省を含めて、苦笑いするしかない人たちを思い出していた。
4年程前だったろうか、50歳前後の男性が一人、エテルナにふらりと入って来た。
今時珍しいダブルのスーツを着て、手には杖を持っていた。
見たところ、どこかの会社の重役という感じがする。
「こちらで人生相談をしていると聞いたのですが」
「人生相談というほどではないですが、スピリチュアリズムをベースにした
アドバイスができると思います」
「ほお、あんたみたいな若い娘さんが、私のような人生の先輩に対して
アドバイスをねえ。
どんなことを言ってくれるか、ま、お手並み拝見と行きましょうか」
そんな感じで始まった。
最初、エテルナでは幾種類かのコーヒーを出していたが、カウンセリングを始めてからはハーブティーをメニューに加えている。
コーヒーよりもハーブティーの方が心身ともに落ち着くからだ。
その男性は勧められるままに、カモミールを主としたブレンドを注文し、一口すすってから、ゆっくりと話し始めた。
彼の話をまとめるとこんな感じだ。
若い時に小さな会社を立ち上げ、今では社員が300名ぐらいの中企業にまでになった。
今はまだ有限会社だが、ゆくゆくは株式会社にしたいという。
ところが、この会社の先行きのことを考えると不安でいっぱいになるという。
現在大学生の息子が2人いるのだが、2人とも跡を継ぐのはいやだと言っているらしい。
子供たちが跡を継いでくれないとなると、せっかくここまで大きくしてきた会社はどうなるのか、従業員たちの生活はどうなるのか、それを考えると寝られなくなることもあるという。
世間ではよくある話だなあと思いながら、天枝は黙って聞いていた。
ふと妹の方に目をやると、目くばせで、他の人がいるのを示した。
お客ではなく、少し離れたテーブルにカウンセリングを受けたいという若い茶髪の女性が座って待っていたのだ。
男性が話す声が大きかったので、妹にも、待っている茶髪の女性にも聞こえていたらしい。
その時、突然、茶髪の女性が話に割り込んできた。
「ねえ、おじさん。
聞こえてきちゃったんだけどさあ、あんた贅沢な悩みだよねえ。
世の中には倒産寸前の会社がたくさんあるし、働きたくても働けない、
たとえ働いたとしても、生活がちっとも楽にならなくて、苦しい人が
ワンサといるんだよ」
すると、もう一人の若作りのオバサンが話に割り込んできた。
この人はカウンセリングを受けに来た人ではなく、お客として週刊誌を読みながらコーヒーを飲んでいた人だ。
その人が割り込んできたのだから、これには天枝も驚いた。
若作りのオバサンが言った。
「その子の言うとおりだと思うわ。
あなたさあ、息子が後を継がないって言うだけのことでしょ。
会社がつぶれるわけじゃなし、まだ時間はあるんだから、これから
どうとでもなるじゃない」
すると男性は
「会社を経営したことがない人には、私のこの不安な気持ちなんて
わかりませんよ」
茶髪の女性は
「私はおじさんの気持ち、わかる気がするよ。
私なんてさあ、彼氏と別れたばかりでさあ、この先結婚できるかどうか
心配で。
学校は高校を中退しちゃったから、手に職なんて何もつけてないし、
両親からは勘当同然だし、仕事もいいところなんてないし。
今はバイトがあるからいいけど、この先、食べて行けるかどうか。」
若作りのオバサンが言った。
「いろいろ考えて行ったら、あれもこれも心配ごとばかり膨らんじゃう
よね。
私なんてさあ、中学生の子供が2人いるんだけど、いい高校に入れるか
どうかすっごい心配。
今のところはクラスでも成績はいい方なんだけど、もし落ちたら近所で
いい笑い者になると思うと、不安がマックスになっちゃうんだな。
それとか、もしウチのダンナが事故に遭って半身不随になったらとか、
リストラされたらとか、そんなことも考えちゃうし。
人生って、いつ何時何が起こるかわからないよねえ」
天枝と妹は、3人が3人とも仮定の話ばかりして不安がっているのを聞いて、目をまん丸くして顔を見合わせた。
この後、3人は盛り上がり、更にお互いの不安や悩みを話し続けた。
ところが、聞いていて妙なことに気が付いた。
話が弾んでいるように見えるが、その実、お互いに自分だけがしゃべっているのだ。
男性が話すと、他の女性二人は相槌を打ちながら聞いているが、それ以上話を発展させることはなく、すぐに自分の話に切り替わる。
「うん、オバサンの気持ちわかるわあ。
私なんかさあ、今の店長と気が合わなくってさあ、言いたいことの半分
も言えないんだ。
それに、いちいち化粧が濃いとか、髪型がどうとか、うるさいんだよね。
いつまで我慢できるかなあ。
我慢できなくなったら、辞めるしかないでしょ。
そうしたら、また新しいバイト先探さなくっちゃいけないし。
この不況だから、そんなに条件の良いバイトなんて早々あるわけないと
思うし」
「そうだよねえ。
ウチの息子の担任なんてさ、うちの息子のことをなーんにもわかって
ないんだ。
ううん、わかろうともしないよ。
よく教師をやっていると思うわ。
担任と懇意にしておくと内申が良いって聞いたけど、どうやって懇意に
したらいいのかしら」
「ほお、なかなか大変ですなあ。
従業員というのは自分の子供みたいな存在だから、路頭に迷わすわけ
にはいかないんですよ。
そう思って一生懸命頑張っているのに、組合は私を突き上げることしか
しない。
社長業なんてつまらないものです」
今度は、みんな愚痴に切り変わってきた。
天枝は途中で席を立ったが、3人はそれを気にも留めず、自分が話すことで精いっぱいのようだった。
そして、3人の話が、いつまで、どれくらい続くのか、見ているしかなかった。
話がひと段落したのだろうか、途中で割り込んできた若作りの主婦が言った。
「あら、もうこんな時間。
知らない人たちとこんなに打ち解けて話したのは初めてだけど、
楽しかったわ
私、そろそろ買い物して帰らないといけないから、これで失礼します」
「あ、本当だ、もうこんな時間。
そろそろバイトに行かなくっちゃ。
今日はいろいろ話してすっきりしたから、店長ともうまくやれそうな
気がする」
こうして、2人の女性は心行くまで話せたことへの礼と、また会いましょうという言葉を残して、そそくさと帰って行った。
男性は女性の気持ちの切り替えの早さに呆気にとられた様子で、口をポカンと開けたまま、2人の後姿を見ていた。
天枝が男性の向かい側に座り、感想を聞くと、その人は言った。
「おかしなものですね。
知らない人たちなのに、あれだけ話したら気持ちがすっきりしました」
「2人の女性が何を話したか覚えてます?」
「あ、申し訳ないが、覚えてないですなあ」
そう言って、頭をかいて笑った。
天枝は、せっかくこのエテルナに来てくれた男性に、ひとことだけ言った。
「傍からずっと聞かせて頂きましたが、私は3人の様子から人間の心の
世界の縮図を見た思いがします。
お互いに深くかかわっているようで、実際には自分のことしか考えて
いない。
人の話を聞いているようで聞いていない。
自分が話したい、自分を理解してほしい、そればかりでしたから。
あなたも、社長として会社のことを心配し、本当に社員のことを心配
しているなら、自分が言いたいことを言うのではなく、まず理解して
あげるのが先ではないかなと。」
男性は天枝の言葉に対して何も言わなかったが、ハッと思い当るところがあるようだった。
そして、そつなくお礼を言い、「また来ます」とだけ言って、帰って行った。
男性が帰った後、妹がひとこと言った。
「あの人たち、心のモヤモヤを吐き出したかっただけなのね。
散々話したから、すっきりして帰って行ったんだわ。
でも、あの“すっきり感”、いつまで効果があるのかしら」
「霊的真理を知っていたら自分でコントロールできるでしょうけど、
未熟だからそんなに持たないかも。
またどこかの誰かと愚痴を言い合ってすっきりするのかしら。
これをあの男性に渡そうと思っていたけど、やめたわ。
今はまだ好機じゃなかったみたい」
便箋にはこう書いてあった。
―― あなたは仕事上の心配と呼んでおられますが、それは不調和状態の
ことです。
精神と肉体と霊とが正しい連繋関係にあれば、仕事上の心配も、
そのほか何の心配も生じません。
心配する魂はすでに調和を欠いているのです。
取越苦労は陰湿な勢力です。
心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、
その心霊的波長を乱します。
心配の念は援助する者にとって非常に厄介な障害です。
拒否的性質があります。
腐食性があります。
その心配の念が霧のようにその人を包み、障害物となって霊の接近を
妨げます。
心配すればするほど、あなたに愛着を感じている霊の接近を困難に
します。
あなたはそれを仕事上の心配と呼び、私は不調和状態と呼んでいるの
です。
自分が永遠の霊的存在であり、物質界には何一つ怖いものはないと
悟ったら、心配のタネはなくなります。
「そして、これは私自身への戒めとして書き出してみたの。
私もこれからは、多くの人が抱いている無用の心配と戦っていかなければ
いけないでしょ。
今日みたいに、ちゃんとしたことが言えないで終わってしまうことが
ないように」
―― 私たちが闘わねばならない本当の敵は無用の心配です。
それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。
単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が
多すぎるのです。
この時のことは、天枝にとってはカウンセラーとして、また、自分の言動にとっても良い反省材料になった。
自分はあんな話の展開はさせないとは思いつつ、もしかしたら、気が付かないところで自分勝手なことを話しているのかもしれない。
自分で気が付いていない自分、これが一番クセ者なのかもしれない。
日誌を読み終え、窓から外を見ると、荒れた台風が続いていたにもかかわらず、ポーチュラカの花が色とりどりに咲き誇っているのが見えた。 |