ぼくのスピリチュアル物語 28 「心のあり方」
黒住さんから11通目に届いた通信は、比較的わかりやすい表現だった。
こんな出だしで始まる。
(「黒住さんからの霊界通信、11通め(1985.6.6)」より)
《およそ生活の歩みたるべきことは、はっきりした態度、渾身の力、責任、これ自らなる生活となる。己が心によらで何かによる。神の義によるもの己が心なり》
(以上)
この書き出しを静さんは次のように読み解いている。
(静さんの「註」より)
「人間として日常の生活を生きてゆく上で、基本とすべき大切なことは、何事に対しても正直な、はっきりした態度であること。物事をすべて肯定的にとらえて(神の導きを信じて)明朗であり、為すべき仕事に対しては最善をつくして自己の責任を全うすること。こうした生き方が自ずと自分本来の生き方になってゆくことである。そうなってこそ神の御意思を全うすることになるのだから。何よりも一番大切なことは自分の心のあり方である。先ずもってそれぞれの心が良くなることのほかに何があろうか」
(以上)
「神の義によるもの己が心なり」を静さんは…
「何よりも一番大切なことは自分の心のあり方」と訳した。
静さんの訳は本当にわかりやすく優しい。
ところで…
この対訳でぼくは、「何事に対しても正直な」「すべて肯定的に捉えて」「明朗であり」「最善をつくして」という原文にはない表現を静さんが付け足していることに注目した。
どこにそんなニュアンスが書いてあるのだろう? 訳者の拡大解釈? と思ったのである。
おそらく、静さんは原文の行間から伝わってくる波を感じ取り、そういった前向きな言葉を選んだのではないかと思う。それは夫婦として38年間一緒に暮らした夫の「おい、アレ」みたいな感じで通じ合う夫婦間のテレパシーみたいなものだろう。
霊界では言葉は不要と聞く。波のコミュニケーションだから、それをこちらの言葉に置き換えるときに「これくらい噛み砕いて言えばわかるだろう」と送ってくる通信が、実はこちらではかなり難解に感じるということのような気がする。
(「黒住さんからの霊界通信、11通め(1985.6.6)」より)
《よろこびは三千世界(仏教語で、全世界・広い世界という意味)に湧き起こり、その力なべて(すべて)に及ぶ。己が力を尊ぶは神一即の力(発動)なり。己を恥ずかしめざる者は、人をも陥れ、人をも恥ずかしむることなし》
(以上)
(静さんの「註」より)
「一人一人が神の御意思に沿った心になってゆくならば、よろこびの声は全世界に湧き起こり、よろこびの波動は広くすべてに波及してゆくであろう」
(以上)
自分が「よろこびの波動」の発信源となり、その波紋が広がっていき、身近な人を共振させ、そのまた身近な人と連鎖的に伝わっていけば、ゆくゆくは全世界が「よろこびの波」に包まれる。
ところで、原文の「己を恥ずかしめざる者は、人をも陥れ、人をも恥ずかしむることなし」は、「自分を恥ずかしめない者は、他人を陥れたり、恥ずかしめたりはしない」という意味だと思うのだが、静さんの対訳にはなぜかこの部分がないのである。重要な部分ではないと思ったのだろうか。
想像するに、そのときの静さんは、行間から前向きな波を受信する周波数状態にあって、「恥ずかしめる」とか「陥れる」というようなマイナスの周波数に共鳴しなかった、つまり目に入っていても心が受信しなかったのではないだろうか。その真意はわからない。
(「黒住さんからの霊界通信、11通め(1985.6.6)」より)
《己が力は無限にして、ひろがりは広大なる宇宙となり、細く結びては、野の花の繊(ほそ)き葉末に宿る露ともなる。己が生命の宿るところを知れ》
(以上)
(静さんの「註」より)
「自分の内部には神の力が宿っている。それは広大な宇宙にまでも広がる大いなる力であり、また一方、小さくつつましい野の草のほそい葉先の一滴の露にも宿る力なのである。正しく極大から極微に至る宇宙の万象万物に神の力、即ち生命は溢れみなぎっている。
人も草木も野の花々も、すべては神の生命の顕現(けんげん=はっきりした形をとって現れること)であり、みんな生命の糸で繋がっていて、この宇宙の一員として存在させられているのです。そうした生命力が自分の中にも流れ、躍動していることを知りなさい」
(以上)
「神の力が宿っている」を生命なきモノにまで範囲を広げるのは「アリ」だろうか。動植物だけでなく、モノ、いわゆる無機物との間でも「これ、好きだな」とか「これ、欲しくない」とか、そういうカタチで感じ取っているのではないだろうか。そんなことをふと思った。
いつも乗っている車に「このポンコツがっ!」と罵声を浴びせたり、「いつも役に立ってくれてありがとう」と感謝を伝えたりすることが、故障や事故などの発生と何か関係があると考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
ぼくは、「宇宙」という限り「生命」の解釈をそんな範囲まで含めるような気がしてならない。
(「黒住さんからの霊界通信、11通め(1985.6.6)」より)
《愛する者よ、溢るる力を知るべし。およそ生命は永遠に、およそ生命は常に、およそ生命は共に存在(あ)るものなり。変わることなし》
(以上)
(静さんの「註」より)
「愛する友たちよ、どうかその変わることなき永遠不滅の生命に、深く深く思いを致してほしいと心から生命を賛嘆し、愛をこめて訴えている通信だと思います」
(以上)
さて、今日はどんな波に共振するのかわからないが、自分がまず人に良い影響を与えるような発信源になる「心のあり方」でなければならない。
(つづく)
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