ぼくのスピリチュアル物語 27 「移行」
黒住さんの霊界通信は、二年間に渡り届けられたが、間隔が数ヶ月間あくときもあれば、一日に何通も来るときもある。また、長い文面のときもあれば、たった一行のときもある。
(「黒住さんからの霊界通信、9通目(1985.5.27)」より)
《天の命 天の働きの一閃のあるとき移行は行われる》
(以上)
文章の価値というのは決して文の量ではない。量ではないが、あまりにも短すぎるでしょ、これじゃ何が言いたいのかわからないですよ、黒住さん。
しかし、しかしである…
短い文章というのは、短いがゆえに、その行間字間を読み取れと想像力を要求してくるのである。その短い一文を何度か読み返し眺めていると、ぼんやりと伝わってくるイメージがある。
それは人が死ぬ瞬間のイメージ…
死期はこちらには知らされていないが、むこうではひとりひとりの移行スケジュールがキッチリと決まっており、温泉旅館の玄関先に従業員が並んでお客様を出迎えるように、むこうなりの迎える体勢が敷かれ、カウントダウンとともに、こちらとあちらを繋ぐトンネルなのか扉なのか、とにかくそれが閃光のように開き、魂の移行は行われる。
悲しみで見送られ、向こうでは笑顔で迎えられる。当人は「死んだはずなのに生きている」と驚きながらも戸惑うが、徐々にあちらの世界になじんでいく。そんな感じではないだろうか。
これはぼくの受け取ったイメージであるが、静さんにはどんな風に伝わったのだろうか。
(静さんの「註」より)
この世からあの世への移行(死)も、共に天の意思と働きが閃光のようにきらめく中での出来事であり、まさに天の命、天の働きとしての輝かしい生命の門出のときなのです。
死は生命を失うことでは決してなく、あの世へ誕生して霊的生命に生きることであり、この世への誕生は、生命が修行のために霊界をあとにして肉体界に生まれることだと思います。この様に生命は、天の意思と自らの希(ねが)いとによって、定められた厳粛な移行を、幾たびも体験しながら、悠久の中を永遠不滅に生きつづけてゆくものであることを、短いことばの中でしみじみと感じさせられました。
(以上)
死は、あの世への誕生…、たしか、シルバーバーチも同じようなことを言っている。
ところで、先週の火曜日(19日)、わが国を代表する名優がまたひとり故郷へと移行していった。原田芳雄さんの演技には、どこか惹きつけられるものがあった。映画を愛した原田芳雄さんの移行スケジュールは、遺作となった『大鹿村騒動記』の封切り舞台挨拶の3日後だった。この世での最後の仕事を見届けた直後の移行、向こうの世界の担当者がこの幕引きを用意したのだとしたら、そのドラマチックな演出に拍手を送りたい。
『祭りの準備』 と 『われに撃つ用意あり』、原田さんの演技をもう一度観ながら、見送りたいと思う。
(つづく)
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