ぼくのスピリチュアル物語 07 「記事」
一週間の家族旅行も終わり、東京に戻ったぼくたちの日常が再び始まった。妻は家事と子育て、そしてぼくは映像演出の仕事に追われた。追われながらも静さんが小冊子の中で紹介した『シルバーバーチの霊訓』を買い求め、時間を見つけては移動中の電車とか喫茶店で読み続けた。
霊訓を読むと不思議と心が落ち着いた。様々なことが書いてあったが、ひときわぼくの心に焼きついたのは「利己的であるべからず、利他的であれ」という指針だった。そういった俯瞰的な大きな視点を得ることで、仕事上のイライラや、人間関係のストレスが大したことないような気がして、ラクになっていくのを感じた。とりわけ、『シルバーバーチの霊訓』は、ぼくにとって精神安定剤のような存在と言えた。
そんなある日、帰宅すると郵便受けに静さんからの封筒が届いていた。ぼくは玄関先に座り込み開封した。約束した雑誌記事のコピーが同封されていた。
記事は、財界通信社が発行する『月刊公論』というビジネス誌で、平野勝巳さんというライターの『瞑想するコペルニクス』という連載中の第4回目だった。5ページに渡るその記事には『元広島大医学部教授の<霊>が見せた不思議な出来事』というタイトルがつき、こんな出だしで始まっていた。
(『月刊公論』1991年11号より)
『日航123便の墜落事故の犠牲者の遺族として、今は亡夫の魂と静かな対話を続けている河口慶子さんへのインタビューの後、慶子さんはふと、「あの事故は大変な騒ぎになりましたけど、霊の世界でもあの時、大騒ぎだったらしいですのよ」とまた不思議なことをいって、二階から小さな冊子を取り出してきた』
この冊子こそ、他界した黒住さんが、静さんに向けて二年間送り続けた霊界通信をまとめたものだった。冒頭から、ぼくの一番知りたかった日の霊界通信に話が及び、ぼくはインディージョーンズが見つけた宝箱を初めて開けるときのような心境で、一度深呼吸をしてから再び記事に向かった。
『その小冊子を広げて、慶子さんが指で示したところには、手書きで次のような文章が書かれていた』
夕刻の暗い玄関に座ったまま、ぼくは1985年8月13日、つまりあの墜落事故の翌日に届いたという黒住さんからの霊界通信の文字をゆっくり目で追い始めた。
(つづく)
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