あれからちょうど10年。
あの時はまだ生まれたばかりで目も開いていなかったマルは、今ではゆったりとした風格になっている。
とにかく人が大好きで、膝の上とか、背中の上で寝るのが好きな、とても甘えん坊の白い猫。
すっかり片付いた部屋の中で、菜々美は膝の上でゴロゴロいっているマルをなでながら、初めて出会った時のことを思い出していた。
☆ ☆ ☆
中学3年生の時、幼稚園の頃からとても仲の良かった友達の萌々香が、父親の転勤で遠くへ行ってしまった。
姉妹のようにしていた親友がいなくなってしまったことで、心にポッカリと穴があき、気持ちも生活もガラッと変わってしまった。
中学3年というのは、身体は大人でも、心はまだまだ子供を引きずっていて、とてもアンバランスな年頃だ。
大切な人がいなくなってしまった寂しさや不安は、大人でさえコントロールが難しい。
かといって、他界したわけではないから、誰かに話したとしても、「そのうち慣れるよ」、「手紙を書いたり、電話をしたりしたらいいじゃない」といったアドバイスが返ってくるのが関の山だ。
そんなことは、わざわざ言われなくても百も承知している。
むしろ、無責任なお為ごかしのアドバイスなんて、逆に腹が立つ。
もちろん、毎日電話をしたいけれど、電話代がかかるからあまりかけられない。
手紙はせっせと書いているが、返事が戻ってくるまで数日かかる。
今ではネットも普及しているが、この頃はこれが精いっぱいだった。
萌々香はすぐに向こうの生活になじみ、手紙で書いてくることは新しい友達のこと、新しい学校のことばかりになって来たから、それが更に菜々美を寂しくさせた。
学校では何ごともなくふるまっているけれど、家では両親に対してなぜか反発ばかりするようになった。
いまでこそ、あれは思春期だったから、とわかるが、当時は理由もなく反発心が湧き、自分でも何が何だかわからないほどの精神状態になっていた。
両親、特に母親は菜々美の変わりようになす術もなく、ただ気持ちを揺さぶらないようにするのが精いっぱいだった。
その気づかいは菜々美をかえってイラつかせた。
じゃあ母親が何をしてくれたらイライラが収まるかと聞かれれば、親友が戻ってくること以外の答えが見つからない。
「誰も私のことなんてわかってくれない、分かろうともしてくれない・・・
私なんて、どうなってもいいんだ。
パパやママなんか、親のくせにちっともわかってくれない。
こんな私なんて扱いにくいから、いなくなれば厄介者がいなくなっ
たって言って喜ぶよ、きっと・・・」
そう思いつめて、10月の曇天のある日、学校から帰ってくると私服に着替え、ポケットにカッターナイフを入れて家を出た。
「菜々美、どこへ行くの !?」
「ママは何にもわかってないんだから、放っといてよ!」
それだけ言うと、走って家を出た。
最初は足早に歩いていたけれど、心の疲れと身体の疲れもあり、時間がたつにつれてどんどん歩くペースが落ちてきた。
日が暮れるにしたがって急に寒くなったと思ったら、小雨が降り始めた。
この小雨が菜々美を更にナーバスにした。
菜々美はポケットに入れたカッターナイフを握りしめ、
「天気まで私をバカにしている。
どうしよう、どこでやろう・・・
人がいないところ、家がないところ、車が通らないところ・・・」
そう思いつめ、歩き方もトボトボとゆっくりになっていた。
小雨が段々と体を冷やし、さらに心細くなっていた時だった。
暗くなりかけているひと気のない道を選んで歩いていたら、草村の中で何かが動いたような気がした。
「何かいるのかな、何だろう。」
そう思って草をかき分けてみると、小さな白い物体があった。
薄暗くなり始めている中で目を凝らして見てみると、
「え? 何? あっ、仔猫だ!」
小さな小さな、まだ目も開いていない白い仔猫が2匹、寄り添っていた。
思わず2匹を手に取ってみると、1匹の方はすでに死んでいて、もう1匹の方はかすかに動いた。
「どうしよう、どうしよう、この仔猫まだ生きている、どうしよう・・・」
小学校の時の悪夢が思い出された。
友だち3人で遊んでいた時、公園に段ボール箱が置いてあったので覗いてみたら、仔猫が3匹入っていた。
可哀そうにと思い、3人で相談して、1人が1匹ずつ家に連れ帰ろうということになって、菜々美も1匹連れ帰った。
ところが、父親が大の動物嫌いで、見るのも汚らわしいという目つきで、
「捨ててこい! 捨ててこなければお前も一緒に出て行け!」
と言われて、母親に連れられて泣く泣く捨てに行ったことがあった。
他の2匹は無事に飼ってもらえることになっただけに、菜々美は自分の責任が果たせなかったことに後悔と罪悪感を強く感じた。
それだけでなく、気になって翌日捨てたところを見に行ったら、子猫はすでに冷たくなっていた。
小さな心は痛み、冷たくなった仔猫を手に取り、「ごめんね、ごめんね・・・」と泣きながら公園の隅に埋めたことがあった。
菜々美はふと我に返り、このまま放っておいたら、この白い仔猫は確実に死んでしまう。
もう、あの悲しみと後悔を繰り返したくない、と強く思った。
菜々美はとっさに着ているトレーナーをまくって、その中に入れて仔猫をくるんだ。
仔猫の体はずいぶん冷たい。
早く温めてあげないと、きっと死んでしまう。
自分の身体も冷たくなってきているけれど、お腹は温かいから、手で持っているより少しはマシに違いない。
あの時の罪滅ぼしをしなければいけない。
そう思って子猫をトレーナーの上から両手で支えて、家に向かって小走りに走った。
仔猫の冷えた体温が自分のお腹に伝わってくる。
祈りにも似た気持ちで、助かってほしい、助けたい、でも、どうしよう、どうしよう、と思いながら走った。
父親は絶対に反対することがわかっている。
でも、捨てることは出来ない。
もし父親が反対したら、この仔猫を連れて家を出よう・・・
そこまで思いつめながら走っていたら、家が見えてきた。
玄関のところで母親が傘をさして立っているのが見える。
家を飛び出した菜々美を心配して、帰って来るのを待っていたのだ。
家を出る時は反発心から死ぬことばかり考えていたのに、今はそんな気持ちもすっかり消え失せ、とにかくこの小さな命を何とかしてあげたい、その一心だった。
「菜々美、びしょ濡れじゃない。
体が冷えているからお風呂に入ったらいいわ。」
「うん、でも・・・これ・・・」
そう言ってトレーナーから子猫を出して見せた。
「まあ、生まれたばかりみたいね。
どうしたの?」
「草むらの中にいた。
2匹いたけど、もう1匹は死んでた。
この仔はまだ少し動いたから、もしかしたら助けられるんじゃないか
と思って連れて来たの。」
「まだ目も開いてないし、身体が冷たくて硬くなってる。
このままだと本当に死んじゃうわ。」
「え? この仔、死んじゃう? どうしよう・・・」
「とりあえず温めなくっちゃね。」
そう言って、母親は仔猫をお湯につけ、温めた。
トレーナーにくるまれていたことが幸いしたようで、お湯で温めたら身体が柔らかくなり、聞き取れるか取れないかのか弱い声で鳴いた。
「ママ、いま鳴いたよね、鳴いたよね!」
「うん、鳴いたね。」
仔猫の背中を小さくさすると・・・か細い声でまた鳴いた。
その鳴き声を聞いて、スゴイ! 生き返った! と言って、2人して喜んだ。
「ねえ、牛乳をあげてみたらどうかな。」
「とりあえず、この仔は大丈夫そうだから、あなたはお風呂に入りなさい。
その間に、牛乳を温めておくわ。 それからよ。」
菜々美が脱衣所で服を脱いでいると、ポケットに入れてあったカッターに気が付いた。
ついさっきまで自分は死のうと思って歩いていたのに、仔猫を見つけた時からそんな気持ちはすっかり吹き飛んでいて、今は仔猫が無事に生きてくれることを願っている。
自分は今までどうかしてた。
あんなことを考えていた自分が馬鹿らしくなってきて、くすっと笑いが漏れた。
お風呂から上がると、子猫はきれいに拭いてもらって、毛布の上を小刻みに這っている。
お腹がすいてミルクを探しているのだろう。
温めた牛乳を習字用のスポイトで口元に持っていって1滴入れてみたら、舌を丸めるような感じで、
「あ、飲んだ! これなら生きるかも。」
ところが、もう1滴口に入れようとすると、今度はいやがって飲まない。
「母親のお乳の味と違うからかもしれないわね。
栄養失調かもしれないし、病気を持っているかもしれないから、
とりあえず病院に連れて行きましょ。
菜々美は動物病院を探して。」
「うん、わかった。」
電話帳に載っている動物病院に片っ端から電話をしてみたが、とほとんどが業務は終わり、翌日来てください、というメッセージが流れるばかりだった。
それでも必死になってかけていたら、何件目だろうか、やっと直接電話に出てくれるところがあった。
何をどう説明したか覚えてないが、とりあえず連れてくるようにと言ってくれた。
母親の運転で家を出ると、動物病院に直行した。
車の中でいろいろ話した。
「ねえママ、この仔を飼ってもいいでしょ。」
「パパがなんて言うかしらねえ。」
それを聞いて菜々美の表情が急に暗くなった。
母親は、菜々美が過去の辛い経験を忘れていないことを察した。
あれほど荒れていた菜々美が、子猫を助けようと必死になっている。
この仔猫をなくしたら、前以上に不安定になって、反抗がひどくなるかもしれない。
「大丈夫、ママが説得してみる。」
「え、ホント? わー、ママ有難う!」
「でも、約束よ。
ちゃんと自分で世話をすること。
菜々美が学校に行っている間はママが面倒を見るけど、帰ってきたら
自分で頑張るのよ。」
「うん、頑張る」
そう言っているうちに、病院に着いた。
ご夫婦でされているのか、2人して待っていてくれた。
医者は仔猫を診察して、
「手当が適切だったので、手遅れにならずに済みましたよ。
栄養不足気味だけど、病気は見当たりません。 よかったですね。
家に帰ったら、牛乳ではなく、仔猫用のミルクを哺乳瓶で飲ませて
ください。
ミルクの温度は、人肌でいいです。
温度が高くても低くても下痢をしますから気を付けてください。
あ、子猫はまだ自分で排泄できないので、飲ませる前と飲んで
からの2回、ティッシュで刺激して排泄を促してください。
こんなふうにね。」
そう言って医者がティッシュを軽く丸めて、おしっことうんこが出るように刺激すると、小さい体から驚く量のおしっこが出てきた。
「牛乳を飲まなかった理由はこれですね。
おしっこが溜まっていて苦しかったのでしょう。」
そう言って、そのあと哺乳瓶でミルクを与えると、ごくごく飲んだ。
「あ、飲んだ! 飲んだよ!」
それからしばらくしてもう一度排泄を促すと、今度はわずかだけどうんこをした。
菜々美はその様子を見て、安堵し、大喜びした。
「おしっこをすることと、うんこをすることって、大切なことなんだね。」
「そうだよ。
飲むから出るんじゃなくて、出るから飲めるんだ。
ミルクは少しの量を回数を多くして与えてね。
できれば、2時間おきぐらいにあげるといいかな。
学校に行っている間は、お母さんに手伝ってもらったらいい。
夜はあげなくても大丈夫だよ。
それと、室内の温度が低いと衰弱しますから、段ボール箱の中に
毛布を入れて、冷えないように工夫してあげてください。」
獣医は事細かに説明してくれた。
菜々美は医者が言った一言一言をしっかりとメモをして、哺乳瓶と仔猫用ミルク、栄養剤を買った。
帰りの車の中で、
「ねえ、ママ。
お腹がいっぱいになったから、安心してぐっすり寝てる。」
「ほんと、良かったわ。 菜々美は一つの命を助けたのね。」
それから母親が訪ねた。
「ねえ菜々美。 今まで何があったか話してくれる?」
「ん? うん・・・
どうしてあんなにイライラしていたのか、自分でも良く分かんないんだ。
萌々香が転校して行っちゃって、それから何だか変になっちゃった。」
「そう、菜々美は寂しかったのね。
その寂しさをコントロールできなかっただけなのね。」
「実はね・・・昨日は死にたくなっちゃって、カッターをポケットに
入れて歩いていたんだ。
そうしたらこの仔猫を見つけて、それまでの変な気持ちが一気に吹っ
飛んじゃった。」
そう言って菜々美は屈託なく笑ったが、母親はその話を聞いて、ゾッとした。
そんな親心を察することもなく、菜々美は笑っている自分が不思議でもあった。
家に帰り、さっそくティッシュで排泄を促し、母親に教えてもらって、ミルクを作って飲ませてみた。
世話をしながら、菜々美は幸せを感じていた。
その時、父親が帰って来た。
案のじょう頭ごなしに、
「猫? ダメに決まってるだろう。
俺が動物嫌いだということを知ってて言うのか!
さっさと捨ててこい!」
それを聞いて、菜々美は思わず仔猫を抱きしめた。
母親が一生懸命説得した。
「菜々美が荒れていたのを知っていたでしょ。
今日はカッターをポケットに入れて死に場所を探しながら歩いたん
だって。
その菜々美を思い留まらせたのが仔猫だったのよ。
もし捨てたりしたら、菜々美は本当に死んじゃうかもしれないわよ。
あなた、それでもいいの!!」
いつもは優しくて父親に従順な母親だけに、母親の説得は父親に反論させないほど力強かった。
その迫力に負けたのか、自分がいる時は仔猫を自分の視野に入らないようにするという約束をして、しぶしぶだけど許してくれた。
それから、仔猫は“マル”と名付けられ、菜々美はかいがいしく仔猫の面倒を見た。
1週間ほどして目が開いた。
その小さなつぶらな目は、たまらないく愛おしい。
それから間もなくして歩くようになり、飲むミルクの量も増え、ネコ砂を用意したら、教えなくてもそこでするようになった。
1か月もしたら、柔らかくしたフードも食べられるようになり、成長の著しさが目に見えて分かるのが嬉しくて仕方がなかった。
こうして、兄弟のいない菜々美にとって、マルは掛け替えのない妹になった。
☆ ☆ ☆
それから半年が過ぎ、家の中はどんどんとマル中心の生活になっていった。
体は大きくなってきたけれど、まだまだ子供でやんちゃな盛り。
カーテンをよじ登ってカーテンレールの上を器用に歩いたり、タンスの上に上がったり、テレビの裏を歩いてみたりと、新しい遊びを喜び勇んで開拓しているように見える。
でも、これって猫としては普通の習性なんだろうな。
パパはというと、これまた不思議なもので、今では誰よりもマルを猫っ可愛がりしている。
会社からまっすぐ帰って来るようになったところをみると、猫嫌いが転じて、猫大好き人間になってしまったらしい。
時々ふざけて、
「パパは猫嫌いなんでしょ?
マルをいじめたら私の部屋から出さないようにして、私が独り占め
するからね。」と言うと、
「おいおい、それはないだろ。
マルはパパのことが大好きなんだぞ。
引き離されたらパパは拒食症になって餓死しちゃうよ(笑)」
そう言ってワハハと笑い、マルの顔を両手で包んで、その顔を覗き込むと、満面の笑みで、
「うん、コイツはやっぱりかわいい。
世界で一番可愛い猫だ」
「そうよ、私が助けた猫だからね。」
そう言うと、母親が、
「助けられたのは菜々美の方よ。
もしマルに出会わなかったら、今頃あなたはどうなっていたやら。
あの医者が言っていたことが妙に心に残っているの。
“出さなければ飲めない”だったかな。
愛情も同じね。
先に愛するから、自分も愛されるのよねえ。
先に愛されることばかり求めていたら、本当の愛情がわからなくなって、
不満ばかりがつのって苦しくなってしまうもの。
世の中を見渡してみると、先に愛することが幸せになる秘訣だとわかっ
たわ。
菜々美がマルを助けたことで、菜々美の方が助けられたこともそう
だしね。」
助けられたのは私の方?
そうだ、確かにそうだ!
自分がマルを助けたつもりだったけど、本当はマルに助けられたていたんだ。
いや、マルもパパもママも私も、全部が神様に助けてもらったんだ。
そんなこんなを考えていたら、急にマルが愛しくなり、ぎゅっと抱きしめて頬ずりし、
「ぜったいに、ぜったいに最後まで一緒にいようね」
そう語りかけると、マルがウインクして「ありがとう」と言ってくれたように見えた。
夜になり、3人でテレビを見ていたら、かいがいしく牛の世話をしている男性の映像が映った。
菜々美は父親に尋ねた。
「ねえ、これだけ大事に世話をしているのに、どうして殺して肉にする
ことができるの?」
「どうしてだろうなあ。
牛も大切な命だということがわからない人なんだよ、きっと。
考えてみたら、パパも昔はそうだったからなあ。」
このニュースを見たのをきっかけにして、家族会議をした。
肉を食べるということは、間接的にマルを食べるのと同じ、そんなことは絶対にできない、というふうにどんどん話が展開して、これからは家では肉は食べない、ということになった。
☆ ☆ ☆
あれから10年。
いたずらっ子だったマルが、今ではほとんど寝てばかりいる。
菜々美の部屋はきれいに片づけられ、大切なものは別の家に運ばれた。
そう、結婚が決まったのだ。
「ねえマル、お姉ちゃんね、結婚するんだ。
いままでお世話になりました。
ありがとうね。」
本当は連れて行きたいのだけれど、愛する者がいなくなる寂しさは、嫌というほど知っている。
ママとパパは私がいなくなるだけでも寂しいんだから、マルまでいなくなったら、2人とも寂しくて病気になってしまうかもしれない。
だから、2人のために、ここにいてあげてね。
私の分まで、ママとパパをお願い。
そんな菜々美の気持ちを知ってか知らずしてか、マルは大きく伸びをした。 |