陽子の家は小さな畳屋を営んでいる。
陽子は一人っ子なので、端から見たらとても大切にされているように見える。
しかし、父親は昔かたぎの職人気質もあって相当なワンマンで、ストレスをいつも母にぶつけ、ことあるごとに怒鳴り散らしていた。
父親は人には厳しく、自分に甘い典型的なワガママ人間だ。
仕事でも、気に入らない客が来るとプイッと家を出て、釣りに出かけたりパチンコに出かけたりした。
時には仕事を母親にやらせて遊ぶこともしばしば。
それなのに、仕事に不備があると母親に当り散らした。
父親は自分の子供の陽子にあまり関心がなく、陽子がどこへ行こうと、何をしていようとさほど気に留めなかった。
というより、自分の視界に陽子が入るだけで怒鳴った。
だから、陽子は罵られることはあっても褒められたことがない。
母親もまた父親の目を気にして、陽子と話すことさえあまりしなかった。
そんな家庭だったから、陽子はできるだけ父親を刺激しないように気を配っていたし、母親が怒鳴られている時は耳を塞いで聞かないようにしていた。
母親を不憫だとは思いつつ、かばうと自分が怒鳴られるからだ。
友達からは、「陽子は一人っ子だから何でも買ってもらえるし、なんでも独り占めできるからいいよねえ。と羨ましがられていた。
陽子はそういう言葉を聞くたびに暗い気持ちになった。
小さい頃からそんな家庭で育ったせいか、陽子は名前に似合わず、無口でとても大人しい。
しかし、大人しいと言われるたびに、意気地なし、陰気、ダメ人間・・・そう言われているように感じていた。
だから、たまに学校の先生から褒められることがあっても、嫌味にしか取れなかった。
陽子の心はだんだんと歪み、そのくせ回りに流されることが協調性だと思っていたから、めったに自分の意見を言ったことさえなかった。
そんな陽子もやがて就職し、いっぱしの社会人になった。
この頃から、陽子は自分というものを考え始めた。
それは、合コンに誘われて行った時がきっかけだった。
陽子は見かけは美形なので、集まった男性は陽子に声をかけたが、しばらくして面と向かって言った。
「オマエなあ、陰気で面白くねえヤツだなあ。 何が楽しみで生きてるの?」
「・・・・・」
答えることも言い返すことも、冗談でかわすこともできず、ただ唇を咬んで我慢するしかなかった。
このとき初めて、自分がコンプレックスの塊になっていたことに気がついた。
私って、一体なんだろう・・・
もし私が死んだら、両親は泣くだろうか。
きっと泣かないだろうな。
友達は私のことなんか眼中にないから、こんな私一人ぐらいはいなくなっても、
気にしないだろうし。
会社だって・・・今の仕事は好きだけど、社員の補充はすぐできるから・・・
自分はなぜ生まれてきたんだろう、なぜ生きているんだろう、
私一人がいなくなったって、誰も困らないし、誰も気にしないし、
だったらいなくてもいいのかな・・・
陽子はそんなふうに考え始めていた。
が、ある時、一緒に仕事をしている同僚に聞いてみた。
「私がいなくなったら、ウチの部は困るかなあ」
「辞めるの? あんたの仕事だったら誰だってできるから、辞めたって大丈夫だよ」
同僚は陽子が転職を考えていると思い、転職したかったら気にせずしたらいい、というつもりで言ったのだったが、陽子は、
やっぱり私なんかいてもいなくたって、どっちでもいいんだ・・・
と悪い方へ考えてしまった。
そんな陽子にも転機が訪れた。
中途入社してきた由香に、陽子が仕事を教えることになったのだ。
由香はお世辞にも美人とは言えないが、とても明るく、誰とでも話した。
だから、すぐに皆と仲良くなった。
陽子はそんな由香が羨ましかった。
その由香が、会社帰りに陽子を食事に誘った。
断る理由もなかったので、陽子は行くことにした。
由香はお好み焼きを食べながら、何かにつけて面白おかしく話した。
こんなふうにして人の話を聞くのは初めての体験だった。
由香が陽子に聞いた。
「ねえ、陽子さんって静かな人ですよね。 品があっていいなあ。
私なんか粗雑だから、陽子さんみたいな人に憧れちゃうんです」
陽子は驚いた。
今までどんな褒め言葉も嫌味に受け取ってきた自分だったけれど、由香の言葉に嫌味は感じられなかった。
その言葉がきっかけとなって、陽子は少しずつ自分のことを話し始めた。
父親のせいで自分は引っ込み思案になったし、無口になってしまったことを。
すると、由香は、「人のせいにしているうちはダメね」 と言った
人のせいにしている? 私が?
今まで自分のことなんて話したことがなかったから、こういうことを言われたのも初めてだった。
「だって、お父さんがあんなだから、私がこうなったのは事実よ」
「確かにそうだとは思うけど、それを乗り越える努力をした?」
由香は続けた。
「いくら陽子さんが悩んでも、誰も気にも留めてくれないわよ。
だって、陽子さんは誰にも心を開いていないもん。
今の自分の欠点を誰かのせいにするのってズルイと思う。
それに、こんな自分を誰かに変えてもらおうと思ったらもっと無理。
まず自分が変わろうとしないとね。
自分が変わると、回りも変わるから楽しいわよ」
「どうやって変わればいいの?」
「とりあえず、ニコニコすることかな。
これだけでもずいぶん変化を感じるはずよ」
そうした由香の言葉を信じてみようと思った。
とにかくできるだけニコニコしようと心がけた。
変化はすぐに現れた。
同じ課の人がいっせいに陽子に話しかけてきたのだ。
「陽子さん何かいいことでもあったの?」
「え、どうして?」
「だって、とっても楽しそうだから」
私が楽しそう・・・?
こんなふうに声をかけられるなんて思ってもみなかった。
それも、ニコニコを心がけてすぐのことだったから。
お昼休みに、由香が話しかけてきた。
「ほら、さっそく効き目が現れたでしょ」
「ええ、たったこれだけなのに、どうして?」
「気持ちが外向きになったからよ。
誰でも内向きになっている人には話しかけにくいものなのよ。
苦虫を噛み潰したような顔の人には話しかけづらいじゃない。
例えば・・・えーと、そうそう、常務を見て。
常務はたぶん良い人だと思うけど、いつも怒ったような顔をしているから
誰も寄り付かないでしょ。
ニコニコは吸引剤なのよ」
「へぇー、そうなんだ」
「もう一つ言っちゃおうかな。
ニコニコに慣れたら、こんどはニコニコ挨拶をしてみて。
ニコニコしながら会う人全部に、自分の方からほんのちょっと大きな声で
挨拶をするの。
やってみて、もっと変わるから」
陽子はその言葉を信じて、思い切ってニコニコ挨拶をしてみた。
効果は3日後に現れた。
朝、出社した時、ニコニコしながら、まだ小さな大きな声だけれど「おはようございます♪」と言うと、数人の男性社員から、「ねえ、今日の帰り、一緒に飲みに行かない」 と誘われたのだ。
陽子にとっては、これは驚きだった。
課長もニコニコして、「陽子君、すまないがお茶をお願いできるかな」、と言ってきた。
今までは、来客の時にお茶を頼まれることはあっても、個人的に頼まれることはなかったから。
陽子は、お礼も兼ねて由香を食事に誘った。
「由香さん、ありがとう。
人生の色が変わったような気がするわ。
でも、なぜ私にこんなにすごいことを教えてくれたの?」
「実はね、私も陽子さんと同じだったから、他人事には思えなかったの。
以前ね、自分はブスだから誰にも相手にされないんだ、
なーんていつも僻(ひが)んでいたの。
そうしたら、ある人がニコニコ体験を話してくれたの。
それをやってみたら、ブスの私でも少しはモテることがわかって、
大喜びしたってワケ」
「へぇ〜、こんなに明るい由香さんが、私みたいだったなんてウソみたい」
「でしょう。
もう一つ伝授しちゃおうかな。
イヤな家族を変えるコツ、知りたくない?」
「ええっ、そんなのあるの?」
「それはね、何でもいいから褒めること。
ウソはいけないけど、髪型でも靴でも、歩き方でも何でもいいから、
とりあえず小さなことを少しずつ小出しに褒めること。
そうすると、相手が少しずつ変わっていくわ。
そうるすと、自分もどんどん変わっていくのよ」
陽子はあの父親が変わるだろうか、あの人だけは変わらないな、と思ったが、ダメでもいいからやってみようと思った。
さっそく家に帰ってから、ちょっと大きな声でニコニコしながら
「お父さん、ただいま。 お父さんの仕事姿っていいなあ」 と言ってみた。
すると、「バカいうでねえ」 と言われてしまった。
次の日もう一度、「お父さんの仕事している姿って、なんだかいいよねえ」 と言ってみた。
昨日と同じように、「バカ言うでねえ」 と言ったが、まんざらでもなさそうな顔をした。
その次の日は、「お父さん無理しないでね」 って言ってみた。
すると、やっぱり、「バカ言うでねえ」と言ったが、嬉しそうに見えた。
相変わらず怒鳴ることが多かったので、そんな時はムカついたが、それでも少しずつ褒め言葉を続けてみた。
正直言って、褒めるところがない人を褒めるのは苦痛だったが、そんな時は無理しないでニコニコだけを心がけた。
一ヶ月ほどたったある日、母親がポツリと言った。
「最近、お父さんねえ、遊びに行かずに仕事をよくするようになったのよ。
どうしたのかしら」
陽子はもっと時間がかかると思っていたので驚いた。
そこで母親に由香さんのことを話し、母親にもニコニコ挨拶を勧めてみた。
そうしたら、今まで怒鳴りっぱなしだった父親の怒鳴る回数がだんだんと減ってきたのだ。
それどころか、冗談さえ言うようになってきた。
陽子の誕生日には、一緒に外食しようとも言い出した。
そして、外食しながら父親が言った。
「陽子、ありがとな。 お前は俺の自慢の娘だ。
嫁になんか行かなくてもいいから、ずっとここに居ろ」
陽子は涙が溢れた。
自分なんていてもいなくても良いと思っていたのに、自分の居場所ができたことを実感したひと時だった。
父親の変わり具合にも驚いたが、自分の気持ちにも大きな変化が出てきたことにはもっと驚いた。
あんなに恐くてイヤだった父親が愛しく感じられるようになって来たのだ。
由香が教えてくれたこと、これからは自分と同じような人がいたら、今度は自分がその人に教えてあげようと思った。 |