正人はある村の診療所で医者として働いている。
午前の診療が終わり、正人はコーヒーを飲みながら、この村に来る以前のことを振り返っていた。
無医村だったこの村になぜ来たのか・・・今になって思えば、何か目に見えない力があって、その力が自分をここに来るように仕向けたとしか考えられない。
東大の医学部を卒業した後、コネで国立の大学病院に入ることができ、その後、外科の准教授にまで昇格した。
ぶっきらぼうな物言いはするが、患者の受けは悪くなかった。
手先が器用なので、外科医としては申し分なかった。
結婚し、子供も生まれた。
順風満帆かと思えた生活だったが、ある刑事事件に巻き込まれ、不幸にもそのとき医療ミスを犯していたことが発覚してしまった。
当然のことながら、大学病院を辞めざるを得なくなった。
事のあらましはこうだ。
ある日の午後、突然警察が病院に踏み込んできて、薬剤師の美香が連れて行かれた。
翌日、正人もその関係者ということで警察に任意同行を求められた。
正人は警察から話を聞いて驚いた。
美香は麻薬中毒に陥っていたということだったが、正人はそれを全く知らないでいた。
刑事が言うには、美香は病院の薬局から手術用の麻酔薬をくすね、それを他の人に転売もしていたらしい。
そして、麻薬を手に入れた経路としては、美香が正人の名前を使って書類を偽造していたことがわかった。
正人は美香に利用されていたのだ。
しかし、この一件で、正人が美香と不倫関係にあった事が発覚してしまった。
こうしたことがあって、マスコミが病院に押し寄せ、院長をはじめ、教授も記者会見をせざるを得なくなった。
もはや病院は握りつぶすことができない状況にまで追い込まれていた。
当然ではあるが、准教授である正人の顔や名前が新聞や週刊誌にも載り、不倫関係にある美香に麻薬を横流ししたことがクローズアップされていた。
もちろん、麻酔薬の横流しには正人は一切関係していないが、世の中はそんなふうには見ない。
マスコミは記事になることなら、個人の人権など容赦なく踏みにじる。
どこから情報を手に入れたのか、更には正人の医療ミスまで暴きだしてしまった。
正人が犯した医療ミスというのは次の通りだ。
手術の執刀を任されて間もない頃、交通事故で脊椎を損傷した患者の手術をしたことがある。ところが、術後に大変な内出血があり、気が付いた時はすでに手遅れ。
それが元で患者は昏睡状態に陥って命を落としてしまったのだ。
さっそく解剖が行われて、原因を究明することになった。
すると、こともあろうに、手術をした際のボルトの固定が甘く、それがズレて動脈を圧迫したあげく血管を傷つけ、内出血を起こしていたことがわかった。
ところが病院側は、解剖の結果、患者が亡くなったのは手術ミスではなく、術後の感染症が原因だと家族に伝えていた。
当然、家族はそれを信じていた。
そうした一連をマスコミが暴き出したのだった。
“有名国立病院に、悪徳医者!”
“医療ミスを犯した医者が不倫相手の薬剤師に麻薬の横流し!”
というとんでもないタイトルが書かれていた。
更には、正人がその薬剤師を売人に仕立て上げ・・・とまで書かれていた。
それに加えて手術ミスの発覚は正人を地獄の底に突き落とした。
有名国立大学病院の権威を失墜させたということで、医師免許剥奪にまではならなかったものの、当然の如く病院を辞めざるを得なくなったのだった。
妻は正人に離婚状を突きつけて家を出て行ってしまった。
こうして、正人は仕事も家族も一瞬のうちに失ってしまったのだった。
生活のため、次に働く病院を探したが、このような問題を犯した医者を受け入れてくれる病院はどこにもない。
しばらくは預金を切り崩して生活していたが、離婚で多額の慰謝料を支払ったために蓄えが少なくなり、しかたなくドラッグストアで働き、生活費を補充していた。
医者としてのプライドはズタズタだった。
仕事が終わり、食事をしながら一人で晩酌をする日が続いていたある日、テレビで無医村の番組を見た。
その村では、医者に診てもらうには2時間かけて隣の町まで行かなければならない。
そんな村が日本中にたくさんあると言うのだ。
もちろんそうした現状を知ってはいたが、そんな僻地へ行くのは偏った正義心を持った者が行くか、もしくは腕が悪くてどこの病院でも受け入れてくれない三流の医者が行くところだと考えていた。
しかし、今はもうそんなことを言っている余裕はない。
自分はもはや三流以下の医者になっている。
医療ミスを犯し、刑事事件までかかわっている。
そんな自分を受け入れてくれる所があるのだろうか。
最後の望みをかけて、正人は某村に連絡をしてみた。
意外にも、話はとんとん拍子に進んだ・・・ようにみえた。
ところが、正人の事件のことを覚えている人がいて、「いくら医者が必要だとはいえ、そんなスキャンダラスな医者に自分たちの命を預けるわけにはいかない」と言い出したのだ。
しかし、中には、それでもいいから来て欲しいという人もいたため、結局は総意で招かれることになった。
自分の命を預けることができない者は、隣町の病院に行けばいい、という結果に落ち着いたのだ。
そうした経緯があって、看護士も誰もいない診療所で、たった一人で医療に携わることになった。
とはいうものの、正人は、まだ過去を振り切ってはいない自分の経緯を思い出し、時々悔しい思いに駆られた。
全ては美香のせいだ。
美香があんなことさえしなければ、何も起こらなかったのに・・・
自分は外車も持っていた。
家も大きなのを建てたところだった。
教授になるのは目に見えていた。
それなのに、自分は地位も家族も経済も一瞬の内に全て失ってしまった。
全部アイツのせいだ!!
そんな思いが頭の中でぐるぐる回っていた。
その時だった。
突然、一人の男の子が診療所に担ぎこまれてきた。
高い崖から転落し、その時に頭と背中を強打し、頭蓋骨が陥没、脊髄損傷、左大腿部が骨折していた。
幸いにも一命を取り留めることはできたが、CTをとらなければ詳しい様子がわからない状態にある。
早く処置をしないと、命が危ない!
応急処置をして総合病院へ搬送した方が良いのはわかるが、総合病院まで片道2時間はかかる。
救急車が到着する時間も加えると、それ以上だ。
過去の事件が脳裏に浮かんだ瞬間、自信が揺らいだ。
もしかしたら、手術が失敗してこの子は命を落とすかもしれない。
そうなったら、またしても手術ミスとなり、村の人たちの憎しみを買って、村を追われることになる。
ところが、このまま総合病院へ搬送すれば、手遅れで命を落とす可能性が高い。
搬送中に亡くなるのであれば、自分に責任はかからないから、そうした方が良いのかもしれない。
正人は一瞬悩んだ、しかし、どうしてもこの子供の命を助けたかった。
いや、自分はどうしてもこの子供の命を救わなければならない、と思った。
その思いだけが正人を支え、助手もなく、たった一人で応急手術に臨んだ。
とりあえず手術は終わった。
正人が必死に頑張ったおかげで、どうやらゆっくりと総合病院へ搬送すれば良いところまでになった。
子供の家族はもちろん、村の人たちは、心から正人に感謝した。
今までだったら、その感謝を当たり前のように受け止めてきたけれど、今度ばかりはそうではなかった。
正人の方が、村の人たちや怪我をした男の子に感謝の思いでいっぱいになっていたのだ。
医者という仕事が聖職であるという意味がやっとわかったような気がした。
以前の正人は、医者という仕事を職業としてきた。
自分の腕は誰にも引けを取らないし、他の医者ではできない手術をいくつもこなしてきた。
医者という職業は良い生活ができ、他の人より偉いというプライドを満足させてくれた。
医者というステータスは本当に心地よかった。
誰もが自分を尊敬し、一目置いてくれていた。
医者になるためにどれだけ勉強し、どれだけ研究を重ねてきたことか。
医者になってからも学会やらなんやらで研究を怠らなかったのは、全て自分が満足をするためだった。
だから心づけも当たり前のようにもらっていた。
いや、腕の良い自分が手術をしてあげるのだから、患者の家族が自分に感謝し、お礼を出すのは当たり前だというぐらいに思っていた。
そうした考えや思いは全て間違っていたと、今やっとわかった。
この村に来られたおかげで、自分は医者として人間として生き返らせてもらえた。
医者として大成しても、人間として傲慢になっていったら自分は価値がない存在になる。
今それにやっと気付かされた。
手術の後片付けをしながら、正人は感涙に浸っていた。
生と死のはざ間にいる子供と向き合っていた時、体から染み出る血液は生命の源であり、その生命はまさしく神の一部であると感じたのだった。
子供に意識がなくても肉体は生きようとしている。
いや、この子の魂が生きようとしているのだ。
そう思うと、自分が向き合っているのは子供ではなく、神なのだと感じた。
この子供を通して神が自分に語りかけていると思った。
正人は、手術をしながら感動で胸がいっぱいになっていた。
医者とはこんなにも神に近い存在だったのだ。
ここに来て初めてそれを体感した。
救急車が到着し、正人は子供の搬送に付き添った。
救急車の中で正人は思った。
自分は大学病院を辞めざるを得なくなって、なんて運が悪いんだろうと思っていた。
何もかも美香に責任転嫁していた。
しかし、全ての原因は自分の中にあったことに気がついた。
美香の問題は美香の心の中にあり、自分の問題は自分の中にあったのだ。
いや、それより何より、不運だと思っていたことは実は不運ではなく、生まれ変わるための試金石だったのだ。
磨かれるということは、なんと辛いことの連続なんだろう。
しかし、磨かれなければ、傲慢のまま。
ここに来て、やっと人間らしい人間になる入り口にたどり着けたような気がする。
搬送に付き添う中、医者という聖職につけさせてもらえたことを心から感謝した。
半年たち、崖から転落した子供は退院した。
神と自分を繋ぎ合わせてくれたその子供の顔を見た時、かつてないほどの喜びが溢れた。
そして、名もない医者としてこの地で一生を送っていこうと決意を新たにした。 |