ぼくのスピリチュアル物語 12 「シルバーバーチ」
慶子さんがご主人の葬儀、及び葬儀後に知り合った二千五百人に贈った一冊の本とは、慶子さんが愛読する『古代霊は語る シルバーバーチの霊訓より』(潮文社) だった。
慶子さんは本を配送するとき、こんな挨拶状を添えている。
(「月刊公論」1911年8月号より)
「ここにお届けする本は、昨年私が本屋で見つけて読みはじめ何度も何度も読んでいたものでございます。これが今回の事故に際して何ものにもまして私を支えてくれました。常の時ならば、このような本をお勧めするのも躊躇するのですが、少しでも興味をおもち下さってお読み頂ければ、これに増した喜びはございません」
慶子さんは送ったうち百人に三人でも、五人でも感動をともにしてくれたらという思いで配送したらしいが、思ったほどの反応はなかったらしい。
しかし一方で、ご主人の残した遺書が世の中に紹介され、記者会見で「主人の事故は運命です」と気丈な態度で語った慶子さんは、ある意味、一時の有名人となった。慶子さんのもとには全国から励ましの手紙がたくさん届いたという。
それらの中に、ご主人を亡くされた広島の黒住静さんからの手紙もあった。手紙には一冊の本が添えられていた。それは霊媒を通じて受け取った亡き夫からの霊界通信をまとめた本だった。
「そういうことだったのか」とぼくは思った。
なぜ、神奈川県に住む河口慶子さんが、広島の黒住静さんの体験した「霊界通信」の本を所有していたか、というぼくの疑問がやっと解消した。
平野さんのルポルタージュによると、広島の静さんはご主人から二年間にわたる霊界通信を受け取ったあとにシルバーバーチと出会い、そのふたつの霊界通信の内容が極めて通じていることに興味が深まり、その後に愛読するようになったという。
だとすると…
慶子さんが贈った二千五百冊の中の一冊が静さんに贈られたのではないだろうか。シルバーバーチを読んだ静さんは、死後の世界のことにさらなる確信を持った。そして、たまたま見つけた新聞の投稿欄の『十六歳の少女の悩み』に対して、長い手紙を書くことになったのだ。
そして、その本をぼくが広島のカレー屋で手にした。興味をもったぼくは静さんを訪ね、シルバーバーチに出あう。静さんを取材した平野さんに連絡を取り、彼のルポルタージュから慶子さんの生き様を知ることになった。
水が高いところから低いところに流れていくように、ある核心へと導かれていくような感覚があった。いろんな入り口はあるが、中にはいれば上手に紡ぎあげられた縦糸と横糸があって、完全なる世界がそこにある。その中心に「シルバーバーチの霊訓」が存在しているような気がしてならない。
かくして、ぼくの探求は続く。
心待ちにしていた「月刊公論」1991年12月号が発売され、ぼくは平野さんのルポルタージュ『瞑想するコペルニクス』の第5回目を読んだ。
(つづく)
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